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カテゴリー "政治・歴史" の記事

トゥールスレン博物館

本日は選挙投票日のため、プノンペンのお店のほとんどが閉まり、日曜日なのにものすごく静か。



8月中旬の任地赴任日まではプノンペンに滞在する私ですが、先日同期の隊員と「トゥールスレン博物館」に行ってきました。プノンペンにいる間に行かなければと思っていた場所です。

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この博物館の建物の周囲は鉄条網で張り巡らされています。

「トゥールスレン博物館」通称S21。
この建物、元々は高校の校舎でしたが、1975年~79年の「ポル・ポト政権下」(クメール・ルージュ)で反革命分子(スパイ)とみなされた知識人や技術者、農民など延べ2万人がここに収容され、拷問の末、虐殺されました。ポル・ポト政権はカンボジア全土で無謀な社会主義改革を強行して、多くの犠牲者を生み出したのです。その影響は現在のカンボジアの至るところで見られます。

さて、鉄条網も独房、尋問室も当時のまま残されています。敷地内に足を踏み入れた途端、何も言えなくなりました。
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独房。

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高級幹部の人々が尋問された部屋。鉄のベッドに寝かされ、手足は鎖に繋がれていたようです。



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収容されていた人々の写真も部屋の壁一面に貼られています。





悲しみを通り越した本当に恐ろしい場所でした。
生還できたのはわずかに7人だったそうです。


以下ウィキペディアから。http://ja.wikipedia.org/wiki/S21_(%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%83%B3)

革命が成功したのに飢餓が進むのは誰か反革命分子が居るからに違いないという、ポル・ポトを始めとする党中央の被害妄想に、現場の看守は残虐行為で応えた。囚人達はいわゆる拘禁反応によって看守達が欲している答え(「わたしはアメリカ帝国主義の手先でした」「わたしはベトナムのスパイでした」)を言い、その対価として拷問の責め苦からの解放(=処刑)を得た。彼らの遺体は裏手のトゥール・スレン小学校跡に埋められたが、じきにそこも満杯になったのと、処刑時の叫び声が響く事から、1977年には処刑・埋葬場がプノンペンの南西15kmのチュンエク村に移された(のちにそこは「キリング・フィールド」と呼ばれることになる)。同じ理由からか尋問の場所もリセの正門前の民家に広げられた。あるいは手狭になったためかも知れない。



尋問中の保安規則


・質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。
・何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。
・革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。
・質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。
・自分の不道徳や革命論など語ってはならない。
・電流を受けている間は一切叫ばないこと。
・何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。
・自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。
・これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電流を与える。
・これらの規則を破った場合には10回の電流か5回の電気ショックを与える。

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1978年12月25日、ベトナム軍と反ポル・ポト政権カンボジア軍の連合軍は、一挙にカンボジアへ進撃し、「カンボジア戦争」が本格化しました。わずか二週間足らずの1979年1月7日にプノンペンが陥落し、3週間ほどのちにほぼ全土が制圧され、ポル・ポト政権は崩壊へ。

ポル・ポト時代の爪痕は本当に深くて人口の3分の1がいなくなったとも言われています。その上、知識人を中心に殺されたので、カンボジアの教育は崩壊して、学校現場では今でも教員不足は続き、企業でも管理職レベル相応しい人が不足していて外国人が代わって務めているところもあります。



カンボジアにまっすぐ目を向けて、この国のことをもっと知らないといけない。

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今週末は選挙です。

カンボジアはただ今「雨季」。
5月中旬から9月下旬までは雨季です。
毎日どしゃぶりが降って川ができるのかと思いきや、雨が降るのは短時間で、その上想像より暑くない。夜なんかは涼しい風が吹いて気持ち良いです。



日本は参議院選挙が終わったばかりですね。

さて、カンボジアも実は、今週末7/28(日)に「国民議会選挙」の投票日があります。
入国したその日から、カンボジア国民の選挙に対する並々ならぬ盛り上がりを感じます。



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お揃いのシャツに帽子で行列をなす。

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支持する政党の旗をなびかせる。


カンボジアは、上院と国民議会(下院)の二院制議会。国民議会だけ解散があります。
今回は、フン・セン首相が所属する与党カンボジア人民党を含む計8政党が選挙戦に臨んでいて、メディアによると、やはり今回も与党優勢のよう。

しかしながら、ご存じの方もいるとは思いますが、先日亡命していた最大野党・救国党のサム・レンシー党首が恩赦を受けて4年ぶりに帰国しました。その日私は学校視察のためちょうど空港の前を通りかかったので、車の中からサム・レンシ―さんを見ることができました。
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与党優勢とは言うけれど、サム・レンシ―を支持するカンボジア人の歓迎の熱が物凄くて、何キロも人が埋め尽くして反対車線は全く車が動いていませんでした。歌ったり、太鼓をたたいたり、お祭り騒ぎ。そして、その人々の大半は若者です。
カンボジアの歴史上若者が多いのは当然なのですが、(平均年齢は約23歳!理由についてはまた後日。)高校生くらいの子から30歳位の人がほとんどだったのではないかと思う位の光景でした。

若者がどこまで本気で政治について考えているか分からないけれど、バイクを2,3人乗りして、旗を振りかざして、顔にペインティングして、叫んでいる姿を毎日見ていると、カンボジアは今までもこれからも人の感情むき出しの激動の時代が続いていくんだろうなと感じます。

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野党は「チェンジ」を掲げて、28年間も首相の座にあるフン・セン首相の与党・人民党は防戦に必死のよう。選挙の結果によっては暴動も起きかねないので、ここのところ毎日大使館から注意勧告のメールが来ます。

ちなみに、プノンペンのほとんどのコミューンで、100パーセントを超える選挙人登録が行われて、なかには200パーセントを超えるコミューンもあるようです。
選挙人名簿では、プノンペンだけでも同じ誕生日、性別、そしてスペルも同じ名前での二重登録が2万5,000件以上あって、選挙人登録の締め切り後も、身元確認証明書(ICE)が異常に多く発行されたともいわれてます。選挙監視人は、名前を増やすためにこれらが簡単に悪用されている事態を警告しているようです。
なんと極端な。これで、公正な選挙結果になるのでしょうか。


日本の選挙とカンボジアの選挙。

今回の参院選は、投票率52.61% 戦後3番目の低さ。

若者の絶対数も状況も違うから、比較はできないけれど、カンボジアみたいな勢いが日本にももしあったら、今回の参院選の結果はどう違っていたのだろう。ネットが公式活用されて初めての選挙で、今までよりは若者の関心が上がっていたようだけれど。

それでも、今回うっすらと見えた変貌が、次回明確につながっていくといいなと、私は思います。
カンボジアでもどこにいても、結局のところ日本人だから日本のことを忘れないように。

そして、色んな意味で大注目のカンボジアの選挙。
身の安全を確保しながら見守りたいと思います。
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